リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

プリコラージュの知の本質―コミュニケーションとメタ認知

「ミニマム・エッセンシャルズのようにあらかじめ知識のリストを用意しておくわけではない。「知」と表現はしたものの、そこに何か実体的な知識領域が存在するわけではない。課題に取り組む実践の中でそのつど生成し、プロセスの中に立ち現れてくる総合的判断力であり、知識活用能力である」.前節で上記のように記したが,この節では.ここをもう少し説明してみたい.

プリコラージュの知の話に入る前の補助線として、まず専門知について述べておこう。専門知を背景とした学問的専門職の典型は医師であろう。医師は医学部教育及び卒後教育で獲得した専門知を駆使して診療を行う。しかし医学知識は爆発的に増加しており、専門医であっても一人の医師が専門分野の医学知識の進歩にリアルタイムに追いついていくことは難しい。しかし、患者の最善の利益を達成するため、最新の診療手法やそれに関連した医学知識を遅滞なくフォローし,それに応じて診療実践を変化させていくことが医師には求められる。

不可避的に医師の専門性は個人の医学知識・スキルに依存したものから、要求されている医療ニーズに対応したメタ認知(自分は何を知っていて何を知らないのか、何を知らなければならないのか)と、同僚や公共の医療情報空間(現在はウェブ上に大部分が展開されている)とのコミュニケーション実践(知らなければならない知識はどこにあるのか、どうすれば手に入るのか、同僚や情報空間に対して貢献できることはあるか)といったコミュニケーションとメタ認知に依存したものへと重点は移っていく。

他の専門職(法曹,研究者等)でも事情は全く同様である.現代社会が個人の知識・スキルを資格という形で可視化していくことを知識経済における知の在り方の観点から批判しているデイヴィッド・ガイルは「知識経済・社会での労働・生活にとって鍵となるのは共同作業でありコミュニケーションであり,こうしたタイプの生活場面で求められる知識能力をいかにして伸ばすかという問題である.政策決定者が教育と知識経済との関係をもっと真剣に受け止めるならば,テストや試験で得られる資格を重視することは手控えられることであろう」と述べているのは,上記の事情を反映しているものと思われる.

個人の知識は依然として有用なものではあるが、メタ認知とコミュニケーションを効果的に行うための指針(探り針)としての機能が大きくなるのである。

プリコラージュの知の場合、トランスサイエンス問題に直面した市民は、少なくともトランスサイエンス問題にかかわり始める当初は、探り針としての専門知もほとんどない場合も多く、また複数の専門知や価値観を橋渡ししていくことも必要になるので、コミュニケーションによる知の補完と現在の自己の立ち位置の省察(メタ認知)が、専門知の内側にいる専門家より一層求められる。バランスはさらにメタ認知とコミュニケーションに傾くのである。やや極端な言い方かもしれないが、プリコラージュの知の本質は個人の所持する知識自体にはなく、コミュニケーションとメタ認知によって知識が組み替えられ、問題に対処する能力が向上するプロセスの中に存在すると考えてよいだろう。

したがってプリコラージュの知を育てるポイントは「トランスサイエンス問題への実効的な市民の関与を可能にするために,市民がトランスサイエンス問題に対して何を知らなければならないか,その知をどう身につけるのか」よりも、「トランスサイエンス問題への実効的な市民の関与を可能にするために,問題にたいするコミュニケーションとメタ認知をどう支援するのか」にある。前者の問いももちろん必要だが、それ単独ではなく、後者の問いの中に埋め込まれた形で、したがってコミュニケーションとメタ認知の進行していく文脈に応じて変動するものとしてその答えを追及していくべきものであると考える。

 

デイヴィッド・ガイル(2012);知識経済の特徴とは何かー教育への意味,潮木守一訳,『グローバル化・社会変動と教育1 市場と労働の教育社会学』,179-198,東京大学出版会