リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

コミュニケーションとメタ認知への支援 1

ではコミュニケーションとメタ認知への支援としてどんなものが考えられるだろうか。

やや項目が多く羅列的になってはしまうが、以下の4つを順次述べていきたい。

  • オルタナティブによる専門知の集約と市民による選択
  • 対抗的公共圏の創造  
  • 価値観明確化と省察
  • 人々の物語を知る  
  • 専門知と市民を媒介する専門家の存在

 

(1)オルタナティブによる専門知の集約と市民による選択

市民がトランスサイエンス問題を議論し.個人的・集団的意思決定を行う時のことを考えてみよう。たとえば原子力発電には経済性,エネルギー安全保障,安全性,世代間の平等,地域間の衡平など様々な公共善(社会全体にとっての共通の利益)が存在する。原子力発電について意思決定していくことは,これらの公共善のどれを重視し,政策として具体化していくのかという問題,つまりどのようなオルタナティブ(様々な代替的選択肢)が存在し.その中からどれを選ぶのか(ということはどれを捨てるのかということでもある)ということを公共圏(公共善について市民が対等に議論する場)で議論し、個人的・集団的に決断していく問題である。

このトランスサイエンス問題における選択の問題を考えるため,関連した教育実践として内田隆の「未来のエネルギー政策を題材としたシナリオワークショップ」を見てみよう。シナリオワークショップとは参加型テクノロジーアセスメントの一手法で、予想される未来の姿をいくつかのシナリオとして提示し、評価フェーズ、ビジョンフェーズ、現実フェーズ、行動計画フェーズの各段階を経ながら、望ましいと思われるシナリオを参加者が選択していくものである。内田は日本学術会議の「エネルギー政策の選択肢に係わる調査報告書」を元として原発について即時廃止シナリオから中心的エネルギー源として位置づけるシナリオまで5つのシナリオを設定し、生徒に討論とシナリオ選択をさせていく授業を行った。この授業では原子力政策について授業前後に自由記述のアンケートを取っているが、たとえば、ある生徒は授業前には記述なしだったが、授業後に「今後、原子力発電を増やすのか、減らしていくのかを考えていくうちに、今までは減らしていくべきだと思っていたけれど、いろいろな資料や友人の意見を聞くにつれて、そのまま現状維持という意見に自分の意見がかわってきたので、関心を持って考えたりすることがとても大切だと思った」とコミュニケーション によって意見が変化してきたことを述べている。また別の生徒は授業前には「どうせ思った通りにならないと思うし、エネルギー政策って節電くらいしかわからない」としていたが授業後には「前回はどうせって思ったけど、今は自分の意見も将来のことにつながるかもしれないって思うと、今はどうせとか、よくわからないとか言ってなげだすのはだめだと思った。わからなくても真剣に向き合うことが大切だと思った」と原子力政策に対する向き合い方についての認知(メタ認知)の変化が見られる。

ここで注目したいのはいくつかのオルタナティブ(代替的選択肢)の提示とそれをめぐる議論(グループでの議論、クラス全体での議論)を通じた意見の変化(もちろん変化しなくてもよい)という授業方略がとられていることである。トランスサイエンス問題なのだからオルタナティブがあるのが当然とも言えるが、当然とも思われるこの方略には大きな意義があると私は考える。それには二つの理由がある。

オルタナティブによる論点整理

 トランスサイエンス問題は考えるべき論点が多岐にわたり、議論を容易に整理できないことがほとんどである。アメリカの大統領に対して日々行われるブリーフィングでは、担当補佐官から、取りうる政策の選択肢(オルタナティブ)とその利点・欠点が提示され、それらを勘案しながら大統領の意思決定が行われていく。状況を容易に一望できないにもかかわらず、意思決定をしなければならない場合、選択肢を専門家が用意することによって状況を構成する論点(文脈)を簡明に整理し、意思決定支援を行うのである。同様の構図が市民教育にもあてはまると考えられる。

また「科学技術へのクライアントシップ」の章で「「意思決定を行う経験の文脈の中でその決定の基礎となる知識が学ばれていくのである。このような学習の形態であっても基礎的知識を学ぶことができる、むしろいわゆる生きた知識(活用できる知識)となる」と述べたようにオルタナティブをめぐる議論の中で、その議論で使われる知識の習得を行うことも期待できる。

②意思決定者としての市民の役割の強調 

オルタナティブが提示され、その中からとるべき道を選ぶという構成は、トランスサイエンス問題についての意思決定が専門家とか行政で決定されて降りてくるものではなく、オルタナティブの提示は専門家が行うが、意思決定は市民が行うという考え方を暗に示すことになる。上述の内田の論文で、事前に未記入だった生徒が事後では「自分の意見を伝えずに政策が可決されて納得いかない結果になったら嫌だから。伝えなくて後悔するより伝えてから後悔する方がマシ」と述べているが、これは授業を通して、原発政策の意思決定に参加する市民の権利や役割を意識するようになったことを示唆している。

内田 隆(2014): 未来のエネルギー政策を題材としたシナリオワークショップ, 理科教育学研究,55 (4),425-436

プリコラージュの知の本質―コミュニケーションとメタ認知

「ミニマム・エッセンシャルズのようにあらかじめ知識のリストを用意しておくわけではない。「知」と表現はしたものの、そこに何か実体的な知識領域が存在するわけではない。課題に取り組む実践の中でそのつど生成し、プロセスの中に立ち現れてくる総合的判断力であり、知識活用能力である」.前節で上記のように記したが,この節では.ここをもう少し説明してみたい.

プリコラージュの知の話に入る前の補助線として、まず専門知について述べておこう。専門知を背景とした学問的専門職の典型は医師であろう。医師は医学部教育及び卒後教育で獲得した専門知を駆使して診療を行う。しかし医学知識は爆発的に増加しており、専門医であっても一人の医師が専門分野の医学知識の進歩にリアルタイムに追いついていくことは難しい。しかし、患者の最善の利益を達成するため、最新の診療手法やそれに関連した医学知識を遅滞なくフォローし,それに応じて診療実践を変化させていくことが医師には求められる。

不可避的に医師の専門性は個人の医学知識・スキルに依存したものから、要求されている医療ニーズに対応したメタ認知(自分は何を知っていて何を知らないのか、何を知らなければならないのか)と、同僚や公共の医療情報空間(現在はウェブ上に大部分が展開されている)とのコミュニケーション実践(知らなければならない知識はどこにあるのか、どうすれば手に入るのか、同僚や情報空間に対して貢献できることはあるか)といったコミュニケーションとメタ認知に依存したものへと重点は移っていく。

他の専門職(法曹,研究者等)でも事情は全く同様である.現代社会が個人の知識・スキルを資格という形で可視化していくことを知識経済における知の在り方の観点から批判しているデイヴィッド・ガイルは「知識経済・社会での労働・生活にとって鍵となるのは共同作業でありコミュニケーションであり,こうしたタイプの生活場面で求められる知識能力をいかにして伸ばすかという問題である.政策決定者が教育と知識経済との関係をもっと真剣に受け止めるならば,テストや試験で得られる資格を重視することは手控えられることであろう」と述べているのは,上記の事情を反映しているものと思われる.

個人の知識は依然として有用なものではあるが、メタ認知とコミュニケーションを効果的に行うための指針(探り針)としての機能が大きくなるのである。

プリコラージュの知の場合、トランスサイエンス問題に直面した市民は、少なくともトランスサイエンス問題にかかわり始める当初は、探り針としての専門知もほとんどない場合も多く、また複数の専門知や価値観を橋渡ししていくことも必要になるので、コミュニケーションによる知の補完と現在の自己の立ち位置の省察(メタ認知)が、専門知の内側にいる専門家より一層求められる。バランスはさらにメタ認知とコミュニケーションに傾くのである。やや極端な言い方かもしれないが、プリコラージュの知の本質は個人の所持する知識自体にはなく、コミュニケーションとメタ認知によって知識が組み替えられ、問題に対処する能力が向上するプロセスの中に存在すると考えてよいだろう。

したがってプリコラージュの知を育てるポイントは「トランスサイエンス問題への実効的な市民の関与を可能にするために,市民がトランスサイエンス問題に対して何を知らなければならないか,その知をどう身につけるのか」よりも、「トランスサイエンス問題への実効的な市民の関与を可能にするために,問題にたいするコミュニケーションとメタ認知をどう支援するのか」にある。前者の問いももちろん必要だが、それ単独ではなく、後者の問いの中に埋め込まれた形で、したがってコミュニケーションとメタ認知の進行していく文脈に応じて変動するものとしてその答えを追及していくべきものであると考える。

 

デイヴィッド・ガイル(2012);知識経済の特徴とは何かー教育への意味,潮木守一訳,『グローバル化・社会変動と教育1 市場と労働の教育社会学』,179-198,東京大学出版会

 

プリコラージュの知を育むー課題特性

ではこのようなつなぎ合わせる知.プリコラージュの知をどうすれば育んでいくことができるのだろうか。前提を確認しておこう。プリコラージュの知はこれまで多くのリテラシー論が依拠してきたミニマム・エッセンシャルズ(最低限の教養)とは異なる。ミニマム・エッセンシャルズは市民が共通に所持すべき知識・スキルを同定し、リスト化したものであらわされる。しかしプリコラージュの知は課題ごとに知識をはりあわせ、かき集めるものなので、ミニマム・エッセンシャルズのようにあらかじめ知識のリストを用意しておくわけではない。「知」と表現はしたものの、そこに何か実体的な知識領域が存在するわけではない。課題に取り組む実践の中でそのつど生成し、プロセスの中に立ち現れてくる総合的判断力であり、知識活用能力である。課題に取り組む中で知識は得られはするが、その獲得自体が目的ではない.文脈に応じて課題解決をしていく能力の獲得が目的である。

このような性質を持つプリコラージュの知は課題解決の現場経験によって育まれる。というよりもそれしかプリコラージュの知を育てる方法はないであろう。もちろん課題ならば何でもよいというわけではない。プリコラージュの知を効果的には育む条件を備えた課題が望ましい。この場合の教育の要諦は教えるべき知識を選ぶことではなく、取り組むべき課題を選ぶ、あるいは学習者による課題の選択を支援することである.そして課題に取り組むプロセスを支援することにある。

ではどのような性質を持つ課題が望ましいのだろうか。上記の記述とやや重複するが例をあげてみよう。近年、温暖化に伴う気象災害が激甚化している。国も自治体も治水施設(堤防、ダム)の設置・強化だけでは対応できなくなり、流域全体で治水を考える流域治水の考え方が主流になりつつある。河道から水が溢れて冠水する場所が出ることも許容し、「溢れても安全」な治水を目指しているのである。これは生態系の保全という環境的な価値、治水に要する公費の節減という経済的価値とも概ね整合している。しかし一方で冠水する可能性のある土地(許容する土地)は多くの場合、水田などの農地であり、農作物が被害を受けることがある.道路も冠水するので,交通は不便になる.「田舎を犠牲にして都市を守る」ことになるので,当然、公正の観点から疑問を持つ人もいる。実際、三重県雲出川など堤防に開口部(無堤防ないしは低い堤防)地が存在していて大きな洪水のたびに農地が冠水する(農地が遊水地となっていて下流の人口密集地での溢水を防いでいる)地域では、その地域に住む人々の多くは、必ずしもそれに納得しておらず、不公平感を持っている。非常に大きな洪水の際には,農地だけでなく住宅も被害を受ける可能性があり,長野県更埴市では,堤防の開口部から流れ込んだ水が遊水地からあふれてしまい,住宅や公共施設が冠水し,市長は開口部の閉鎖を求めている.災害の激甚化に対応するための流域治水が,逆にそれによって守られるはずの当事者から異議申し立てを受けるという錯綜した構図になっている.

流域治水を進めていくには、冠水する可能性のある土地の財産の保全、財政コスト、公正の問題,川や田んぼの生態系保全、景観設計など考えなければならない様々な要因をその地域の事情に応じて解きほぐしていかなければならない。それぞれの領域にはそれぞれの専門知は存在するものの、それらを調整する定型的な手法が存在しているわけではないし,専門知の間には(たとえば生態系の保全と洪水被害の低減)しばしば対立が存在する.結局は流域の市民があれこれと専門家の意見を聞きながらも自分たちの中でしっかり話しあって折り合いをつけ,着地点を探していく(協働的課題解決),プリコラージュとして解決していくほかはない.

ここには

①様々な専門知を援用して取り組まなければいけない課題

②専門知相互,あるいは専門知の内部にも対立が存在し,その対立を認めながらも決断しなければいけない課題

③解決の過程の中に専門家と市民,市民相互の協働を含みこむ課題

という課題特性が存在する.

プリコラージュの知はこのような特性を持つ課題に取り組むことによって構築されると,私は考えている.

これは政策的に言えば市民参加の政策形成であり,教育論的に言えば,社会的相互作用を通じてプリコラージュの知を構築して行く自己教育のプロセスということになる.

プリコラージュの知

プリコラージュ(フランス語)とは「寄せ集めてつくる」という意味であり,「器用仕事」とも訳される.たとえば服のデザインの分野では,ありあわせの布を組み合わせて新しいデザインや服を作りだす仕事をさして使われる.レヴィー・ストロースは,人類学の調査の中で,「未開人」と見なされてきた先住民が、西洋の知識体系とは異なるが,独自の論理で世界を秩序付ける思考様式を持つことを発見し,これを「具体の科学」と呼び,プリコラージュになぞらえて説明した(1).

 プリコラージュは近代科学の考え方とは対照的な思考である.近代科学は対象となる現象を世界から切りだす.たとえば生物学は世界の中から生物を抜き出す.あるいは栄養学は生物の諸現象を栄養という観点から切り出す.そして切り出した現象や事物を網羅的に探求し,分析して明快な因果関係の網の目で現象や事物を理解しつくそうとする.一方,プリコラージュは今ある手持ちの知識や材料から出発し,それらを組み合わせ,いわばそれらと対話しながら,足りないものを適宜調達し,パッチワークのように組み合わせて世界を理解しようとする.領域にはこだわらず,利用できるものは利用する.「「持ち合わせ」,すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である」(1).パッチワークを構成する部品間に不整合が発生することがあっても何とかそれをおり合わせ,世界の理解可能性を維持しようとする.それは神話が起源の異なる様々な神話が混淆しても,何とかそれらの間に辻褄をつけて神話の統一性を維持しようとすることに似ている.

 こう説明してくると,プリコラージュの知,寄せ集めてつなぎ合わせる知は何か不徹底でいい加減なもののように思われるかもしれないがそうではない.確かにそのような一面はあるだろう.しかし,それは近代科学,たとえば医学だとか物理学が確立してきた専門家のための各専門分野の知(専門知)とは異なるが,社会にとって専門知とは異なる意味での有用性を持つのであり,専門知の限界を補う可能性を持っている.その理由を次に述べよう.

上に述べたように専門知は世界の中から、その専門知が対象とするある領域を抜き出して、それを体系的な知の形、典型的には学問の形で理解しようとする.専門家は特定の領域、例えば医療、工学、教育等について専門的訓練を受け、専門知により各領域に生じた様々な課題に対処するわけだが、それぞれの領域には各領域の知見を背景とした定型的な課題処理の様式が確立している。医学の場合で言えばそれぞれの病気についての標準治療があり、法曹の世界には判例があり、建築の世界には設計施工基準がある。少し荒っぽい言い方になるが、これらの定型を知悉し、それをふまえた実践を間違いなく行うことができるのが専門家であるといってもよいだろう。

専門知はその定型的な課題解決の型に落とし込むことのできる課題に対してはきわめて有能である。しかしその有能さは何にでも同じように通用するわけではない。「科学知識は自然界の一つの描写」,「対象あるいは現象のある限られた範囲の「地図」」なのであって,きちっと定式化されたものであれば、どんな問いにも厳格に答えられる」(2)ことが強みであるが,逆にその分野の定型に落とし込んでしまうと他の分野が見えなくなってしまい,むしろそれが逆機能になってしまう場合すらある。この節の冒頭で述べた缶ミルクがまさにそのような例にあたるだろう.おそらく支援にかかわった担当者は栄養学の観点から缶ミルクの優越性を確信し、栄養学の定型に落とし込むことによってアフリカの子どもたちを救えると思い込んだのではないだろうか.

典型的なトランスサイエンス問題はまさにこのような定型が通用しにくい構造をしている。大規模風力発電施設を例にあげてみよう.マクロに言えば,再生可能エネルギーの発電量を増大させていくことは必要である.エネルギー自給につながる可能性もある.しかし騒音,低周波振動,希少生物への影響,地域によっては斜面崩壊による災害を惹起する可能性などデメリットについても多様な観点から検討する必要がある.また建設の是非や規模の決定に対する地域住民の参与など政治プロセスの民主性の確保も考える必要がある.

これら個別の問題について専門家が関与し,専門知を提供することは必須であるが,それらの専門知を統合して最適な意思決定を行う手法が存在するわけではない.可能な解はいくつもあるし,どれが最適な解かは,価値観によって違う可能性がある.要するに至極あいまいなのである.その曖昧さは専門知が不完全なために生じる問題というよりも,「科学的合理性が及ばない領域で意志決定をしなければならない」,「科学のもつ理性とは別に恣意的ではない合理的な判断が求められる」(3)というトランスサイエンス問題の本質に内在した問題である.経済学者のアマルティア・センは社会経済政策が実現すべき価値について「合意あるいは一致を民主的に探し求めることに依存する選択手続きはきわめて混乱したものになるかもしれない.テクノクラートはこの混乱にすっかり嫌気がさし,「まさしく正しい意味合い」出来合いのウェイトを与えてくれるような素晴らしい方式を切望するかもしれないが,しかしもちろんそのような魔法の方式は存在しないのである」(4)と述べているが,トランスサイエンス問題についてもこの指摘はあてはまる.トランスサイエンス問題にも「科学的合理性」にかなった魔法の方法は存在しない.

どうすればいいかと言えば,当該地域の市民が専門家や他の市民と対話しながら,これらの専門知をそれぞれの価値観による自分なりの重み付けをし,地域の文脈にてらしながら.つなぎ合わせて意思決定をしていくという実に泥臭く手間を要する方法に頼るほかはない.このとき市民はプリコルール(器用人)となりプリコラージュを行うのである.そしてその市民の意思を何らかの方法で集積してその地域(自治体とか集落とか)の意思決定としていく.

その意思決定を「難しい問題だからわかんない」として専門家に委ねることは適当ではないだろう.それは民主的な意思決定の権利の否定であり,また専門家からすれば,むしろ意思決定そのものへは関与しないことによって(むろん個人としての意見を表明することは構わない)価値中立とか普遍性というような専門知の中核的価値を守ることができるからである。

このように考えてくると、意思決定に必要な専門知がいくつか存在していて専門知相互の調整を一意的に行うことができない課題,価値観の競合が存在している課題「(ほとんどのトランスサイエンス問題はこれにあてはまる)においては,それらの専門知を対話と熟考によってそれぞれの市民がそれぞれの仕方でつなぎ合わせる,つまり再組織して課題に適用するというプリコラージュの知の形でアプローチするという形にならざるを得ないことがわかる。もちろん専門知を軽視するわけではない。むしろ再組織と適用の過程で、専門家と対話することによって,専門知の持つ問題を焦点化する能力、専門家のネットワークを駆使する力といった専門知の切れ味の鋭さは身に迫って意識化されることになるだろう。ただ大事なことはそれに取り込まれて依存してしまうのではなく、専門知を課題の解決にどう生かすのかを市民自身、当事者自身が自分の頭で考え,意見を表明し,対話し,また意見を変える,つまり自己教育を行っていくことだ。市民のプリコラージュの知と専門知が補足しあうことによって課題に対峙するのである.

(1)クロードレヴィストロース(1976):野生の思考,大橋保夫訳,みすず書房

(2)ジョン ザイマン (1988):科学と社会を結ぶ教育とは,竹内敬人・中島 秀人 訳,産業図書

(3)廣野喜幸(2013):サイエンティフィック・リテラシー 科学技術リスクを考える,丸善出版

(4)アマルティア・セン(2000):自由と経済開発,石塚雅彦訳,日本経済新聞社

判断を統合する―善き生のための思慮深さ 序説

日本の科学技術社会論を主導し,その基礎を作りあげた村上陽一郎は「科学者とは何か」(1)の中で「缶ミルクの教訓」と題してアメリカの食品会社の発展途上国支援の失敗を述べている.その会社は善意のキャンペーンとして,飢餓に悩むアフリカの家庭に自社の粉ミルクを配る支援を行った.飢餓で母乳の出ない母親への粉ミルク配布は子どもの栄養状態の改善に役立つという意図の下でこの事業は進められたが,現実には悲惨な結果を招いてしまった.現地では哺乳瓶を洗浄する清潔な水が使えず,哺乳瓶内で細菌が繁殖して,感染症で死亡する赤ちゃんが激増したのである.村上はこの事態を「缶ミルクによってアフリカの飢餓を救えると思いこんだアメリカの食品会社の側,あるいはそのキャンペーンに賛同した人々の間に,総合的な推理と判断とが欠けていたがゆえの悲劇であったという外はない」と批判し,そして「いくつかの領域での基礎的な知識を持ち合わせ,それを統合する健全な推理力,予測力を備えた人間がいたならば,この悲劇は救えたかもしれなかった」としている.村上は同書の中で今後求められる「新しい知識人の資格」を,「常に「メタ」の立場からものごとを眺め,色々な観点を秤量しつつ,総合的に判断を下せる人物」と述べている.これは知識人への言及であって普通の市民にまでこのような資質を求めているわけではない.しかし私はこの村上の記述を呼んだとき,市民に求められる科学リテラシーというのは,まさにこのような資質を育てる教育だと感じた.

 上記の事例は村上も言うように,知識として必要なのは「いくつかの領域の基礎的な知識」であり,決して特別な知識ではない.アフリカの衛生状況,清潔な水が欠如している状況での細菌の繁殖というようなことは中学生,あるいは小学生でも知っているようなごく普通の知識である.しかしそれ自体は普通の知識であってもそれを状況に応じて適用し,起こりうる事態を想像することは決して簡単ではない.

より一般化した問題解決の文脈で言うならば,適切な問題解決のためには,自分の手持ちの知識が問題の文脈を判断するのに十分なものなのか,自分の行っている思考の道筋に批判の余地はないのかといったことを吟味するメタ認知を繰り返しながら.多様な観点から状況を熟考し,観点を統合して判断することが求められる.価値観の対立する問題の場合には自己の価値観を省察し,場合によっては組み替えることも求められるだろう.

このような知はもちろん専門家にも求められるが,私は,このような知を現代社会における「市民の知」として,知識・スキルの体系性を特徴とする「専門家の知」(専門知)とあえて区別して考え,意識化することが必要だと考える.この「市民の知」は「プリ・コラージュの知」と言い換えることもできる.本節ではこのプリコラージュの知とそれを支える条件について見ていこう.

(1)村上陽一郎(1994):科学者とは何か、新潮選書

統計的議論についての着目点

 先に疫学を市民教育の場で扱う際には「統計的手法(ある程度は必要)は最小限度にとどめ,意思決定の教訓となるような事例(公害病等疫学が意思決定の根拠として利用された事例)における疫学の利用を,必要に応じて法的・制度的・倫理的な側面にも触れながら学習するケースメソッドの手法をとるのが良い」と述べた。これは具体的には市民のリテラシーとしては、統計的手法の細部ではなく、あるケース(たとえば有害物質による疾患の広がり)をめぐる議論について、どこに着目して吟味すればいいかということが重要となるということである。

 ではそれらの議論の統計に関連した部分についてはどこに注目すればよいだろうか。2006年のPISA(国際学力比較調査)の問題(1)を手掛かりに考えてみよう.

 以下のような問題である。ある大きな肥料製造の化学工場の周辺で慢性呼吸器疾患に罹患する人が増えていることから、住民が有害物質が放出されているのではないかという疑いを持ち、住民集会を持った。その場で、化学工場から調査を依頼された科学者は、土壌のサンプルを採取し調査を行った結果、有害物質は検出されなかったと報告し、一方住民から依頼された科学者は、工場の近くの地域と工場から離れた地域で比較した結果、慢性呼吸器疾患の患者数が工場近くでは多くなっていると報告した。化学工場から依頼された科学者の報告を疑う理由と住民から依頼された科学者による地域間比較の妥当性を疑う理由をそれぞれ一つずつ述べよというのがこの問題である。この問題は正答は一つではない.たとえば化学工場から依頼された科学者の報告を疑う理由については「呼吸器疾患を引き起こした物質がこれまで有毒物質として認識されてこなかった物質である」など6つの正答例が示されている.それらも参照しながら吟味の観点を書投げてみよう。

①誰が調査しているのか

 統計的議論とは直接関係ないが,まず着目すべきはこの点であろう.科学者の調査は依頼者が誰であるかということに関わりなく厳正に行うべきというのが科学者に求められる研究倫理である。しかし過去の公害病等の例も見てもわかるようにこの倫理が必ずしも実践されていない例もあることも事実である。もちろん捏造などは論外であるが、そのような明らかに倫理(多分法律にも)反するリスクを冒さなくても、手法の選択によって妥当でない結果を出すことも可能である。この場合、なぜ化学工場から依頼された科学者が大気ではなく土壌を調べているのか疑問となろう。おそらく呼吸器疾患に直接関係するのは大気である。大気ではなく土壌を調べることについて説得力のある論拠がなければ、科学者が依頼者である工場に忖度して呼吸器疾患に対する工場の責任をあいまいにする意図があったと疑義を持たれることになる。

 調査を単に受容するのではなく,「誰が調査したのか」についての留保を持って調査を吟味することが第一の着目点である。ただこれは調査者の立場を絶対視するということではない。あくまでも調査結果に対して留保を持って対するということである。

②どのようにサンプルを選び、そこから何を調査したのか

 土壌を調査するといってもあらゆる地点からくまなく土壌のサンプルを採取することは不可能である。どのような基準によってサンプルを選んだのか、その基準は妥当なのかを吟味することが必要になる。工場から有害物質が放出されていたとしても、地形的・気象的条件の影響を(たとえば主たる風向の風下なのか風上なのか、凹地なのか凸地なのか)考慮しているのか、いないのか、仮に意図的ではないにしろ工場の風上で集中的にサンプル採取をしたとすれば、妥当性に欠けるものになる。サンプルはその地域の土壌という母集団の縮図になっていなければならないのである。また有害物質として何を探索しているかということも吟味の対象になる。有害物質を網羅的に探索することは不可能である以上、何かを検出のターゲットとして選択するわけだが、それが妥当なものかどうか、つまり工場の操業過程で出てきそうな物質かどうかということである。

 仮に工場から放出される物質aの濃度と罹患率の間に負の相関(距離が離れるにつれて罹患率が減少する)が検出されれば、aが疾患を引き起こしている物質の有力候補となりうる。ただし早合点は禁物である。水俣病の場合も、有機水銀水俣病の原因であることが立証されるまでマンガン、セレンなど様々な重金属が疑われた。的外れな措置を取らないためには因果と相関を同一視せず、実験的研究も付加するなどさらに証拠を固めていく必要がある。しかし証拠固めの間に無策でいては生命や健康に悪影響を与えてしまう可能性がある。ここで先に述べた予防原則の必要性が再び出てくることになる。

③どう調査し、どう解釈したのか

 住民から依頼された科学者が選んだ健康調査の対象地区について、工場のある地域をA地域、工場から遠い地域をB地域としてみよう。A地域との方がB地域より人口が多ければ、同じ罹患率であってもA地域の方が患者数は多くなる。比較すべきは罹患率である。しかし罹患率がたとえばA地域の方が2%多かったとしてもただちにA地域の方が罹患率が高いとは言えない。違いに意味があるかどうか、つまり違いが単なるゆらぎでないかどうかは検定という操作を行い、A地域の罹患率がB地域の罹患率よりも高い確率が十分大きいと判断できる必要がある。ちなみに統計学でいえば、これは「差がない」という仮説(帰無仮説)が正しい確率がある値以下(通常は5%未満 p<0.5)の場合、「帰無仮説は棄却される」と表現する。つまり差があるということになる。

罹患率に影響を与えるかもしれない他の要因にも目を配る必要がある。A地区でB地区よりも高齢化が進んでいる場合などであり、その影響を補正する必要がでてくるかもしれない。

 以上は統計的議論を吟味するためのごく初歩であり、数学で扱うというよりも理科や社会の中でトランスサイエンス問題にかかわる統計を取り上げるときに扱うことが十分可能であると考える。

(1)OECD(2006): Assessing Scientific, Reading and Mathematical Literacy A Framework for PISA 2006,

https://www.oecd-ilibrary.org/assessing-scientific-reading-and-mathematical-literacy_5l9px1szzg30.pdf?itemId=%2Fcontent%2Fpublication%2F9789264026407-en&mimeType=pdf

「分析による麻痺」を避ける 及び 疫学は個人ではなく集団を考える時に意味を持つ

1 「分析による麻痺」を避ける

 一般に科学においても法律においても統計学で言う第一種の過誤(因果関係がないのに因果関係があることにしてしまう,犯人でないのに有罪にしてしまう)よりも第二種の過誤(因果関係があるのに因果関係がないことにしてしまう,犯人であるのに無罪にしてしまう)が犯されすいように見える,つまり慎重な判断が好まれる.データがそろってから,証拠がそろってから因果関係を推定する論文や答申が作成される,あるいは起訴が行われるのである.藤垣は水俣病をこの第二種の過誤がおこった例として説明している(1).行政,特に規制行政にも似たような傾向が見られる.豊島の産業廃棄物不法投棄や熱海市伊豆山の盛り土が引き起こした土石流災害などを見ると作為過誤 (するべきでないのにした 第一種の過誤)よりも不作為過誤(するべきなのにしなかった 第二種の過誤)を犯しやすいようである.行政が判断する際にはさらに原爆被害者が提訴した「黒い雨」裁判で国が「ほとんどすべての国民が何らかの戦争被害を受け,戦争の惨禍に苦しめられてきたという実情の下においては,原爆被爆者の受けた放射線による健康被害が特異のものであり,「特別の犠牲」というべきものであるからといって,他の戦争被害者に対する対策に比し著しい不均衡が生ずるようでは,その対策は,容易に国民的合意を得難く,かつまた,社会的公正を確保することもできない」(2)と他の戦争被害と原爆の被害の補償のバランスに言及しているように行政の責任を限定的にして他への波及を避けようとする政策的バイアスも存在し,ますます第2種の過誤が起きやすくなっているという構造上の問題もある.

むろんどちらの過誤も避けた方がよいが,上記の科学や法,行政の傾向を考えると,トランスサイエンス問題を扱う教育においては意識的に第二種の過誤を避ける,つまり重大な被害が起きかねない局面においては,実験的・病因論的な因果関係の解明が十分でない段階であっても,疫学的因果関係が認められれば,その段階で原因と目される行為や施設等の規制に踏み込んでよいという予防原則の論理を明示的に教えるべきと考える.生命や健康,種や生態系といった侵害されれば取り返しのつかないものについては完全な科学的証拠がなくても対策を行って潜在的な被害を防ぐべきであり,対策を講じながら科学的知見の充実に努めればよいという考え方である。詳細な因果関係の解明を待っていては遅すぎる可能性があり,少しでも早く対策を打つ必要があるからである.もちろんこれは間違う可能性を含んでいる.不必要な社会的・経済的コストを企業や行政に負わせてしまう危険があり,不必要だと分かった場合,補償責任が生じる場合もあろう.それも理解しておく必要がある。従って,これには,この責務を遂行した官僚や政治家個人の責任を追及して行政や政治を委縮させないという市民やメディアの責任も含まれる.

2 疫学は個人ではなく集団を考える時に意味を持つ

 疫学は個人ではなく集団を対象としたものである.たとえば喫煙という行為を行っている集団と肺がんの罹患率の関連を見るもので,個人の肺がんの原因を特定するものではない.ヘビースモーカーが肺がんにかかれば,喫煙が原因となった可能性は高いが,断定はできない.実は実験的手法であっても,特定個人の細胞や組織の中での分子やイオンのふるまいとそれに対する細胞や組織の応答をリアルタイムに追跡しているわけではないから,がんのように様々な原因が考えられるものについて厳密な因果関係を確定することはほぼ不可能である.ところが公害病,有毒物質の飛散事故,原水爆の被害といった人為的なものによる生命・健康被害については,疫学を根拠として,あたかも被害とその原因を厳密に対応付けして,被害者を特定できるかのような議論がなされ,行政がその議論をもとに施策を行うことがある.Aさんは基準に適合しているから被害者で,Bさんは基準に適合していないから被害者ではないという運用である.これは実務上.一定の基準を設けざるを得ないという事情に由来するものであるとはいえ,集団のリスクを対象とする疫学を個人に適用して因果関係を機械的に推定するという過ちを犯していると言わざるを得ない.疫学を援用した議論はしばしば数学的な詳細の話になってしまいがちであるが,この疫学の大前提を押さえない議論は不毛である.市民教育で疫学の考え方を扱う際,この前提はしっかりと教えておく必要がある.やや議論が抽象的になってしまったので,具体的な話をしておこう.

2001年に厚生労働省の疾病・障害認定審査会原子爆弾被爆者医療分科会は疫学の「曝露群の寄与危険度割合」(がんなどの病気の発生に原爆による放射線被曝が寄与している程度を示す確率)の考え方に基づき,被爆時年齢・性別・推定被曝線量から白血病等13の病気の原因確率を算出した表を提示した.そして原因確率が「おおむね50パーセント以上である場合には,当該申請に係る疾病の発生に関して原爆放射線による一定の健康影響の可能性があることを推定」という「原爆症認定に関する審査の方針」(3)を定めた.ところが,この基準(旧基準)では認定されない被爆者が相次ぎ,認定却下を不服とする集団訴訟が提起された.訴訟で国の敗訴が相次いだことからこの基準は改訂されたのだが,判決(平成20年5月30日大阪地裁判決を例とする)では次のように「曝露群の寄与危険度割合」を個人に適用することの不適切性を明確に指摘している.「原因確率は,現存する最良のものであるとしてもそのような基本性格をもつ疫学調査に基づいて算定された寄与リスクを個別具体的な個人に発症した個別具体的な疾病に適用しようとするものであるが,寄与リスク自体は,あくまでも当該疾病の発生が放射線に起因するものである確率を示すものにすぎず 個々人の疾患等の放射線起因性を規定するものではないから原因確率が小さいからといって直ちに経験則上高度の蓋然性が否定されるものではない(例えば,原因確率5%という場合,10人全員が5%の過剰リスクを負っていた場合もあるし,10%の者が5人で他は0%の場合もあり,審査の方針のいう10%を超える者であるか否かは,個別の審査でなければ判定できない )」.疫学を具体的な事象に適用しようとする場合,疫学が集団を対象としたものであって個人について判断するものではないこと,個人について判断する場合には,個々の事例に即した判断が必要であることという原点に立ち戻って判断しなければならない.この場合,多少の判断のぶれはありうるが,そのぶれは基準の機械的な適用によって排除するのではなく,複数の専門家による判断など判断の工夫によって是正していくべきものであろう.判断そのものはあくまでも個別事例に即して判断するべきである.

(1)藤垣裕子(2003):専門知と公共性,東京大学出版会

(2)広島地方裁判所令和2年7月29日「黒い雨」被爆者健康手帳交付請求等事件判決中の被告の主張より引用

(3)疾病・障害認定審査会原子爆弾被爆者医療分科会(2001):原爆症認定に関する審査の方針 第1回原爆症認定の在り方に関する検討会(https://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/09/s0928-9.html)において提出された資料を引用

(4)大阪地方裁判所(2008):平成20年5月30日判決原爆症認定申請却下処分取消等請求控訴事件判決 https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/731/036731_hanrei.pdf