リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

市民参画の根拠ー科学技術の政治化― 選択のダイナミクス

前節で科学技術が民主的統制の外側にはみ出していく、つまり脱政治化していくことを取り上げたが、では政治とは何だろうか、様々な定義があろうが、ここでは「学術会議政治学委員会政治学分野の参照基準検討分科会」の大学教育に関する報告(1)中の「政治現象とは、人間集団がその存続・ 運営のために、集団全体に関わることについて決定し、決定事項を実施する活動を指す」とひとまず考えておこう。つまり政治とは人間集団が何らかの意思決定を行い、その決定を実施していく過程と解される。そして同報告に「現代の政治学は、このように多様化し複雑化する状況を踏まえつつ、それにもかかわらず、人間集団が自らに関わる意思決定を人為的に行いうるという側面に注目し、意思決定の背後にある対立構造や、決定をもたらす権力などの分析を通じて、社会的な秩序を解明する総合的な学問である。」とも記されているように、政治とは何か必然的な論理に動かされて「これしかない」と決定するのではなく、様々な可能性の中から人間集団がある道を選び取っていく過程である。

政治をこの意味で考えると、科学技術が選択の可能性を拓くのではなく、「これしかない」という唯一の選択に収束する場合、科学技術は政治の対極に立つものになると考えられる。こういう側面が科学技術にあることは否定できない。線形計画法でコスト最小の輸送計画を決定する場合のように、一定の条件の枠内で解が一意的に決まることはありうることであり、科学技術の力をまざまざと実感するのはまさにこういう場面であろう。

しかし科学技術が社会に実装されてきた歴史を振り返ると、このような科学技術固有の論理のみによって実装が行われてきたわけではないことに気づく。科学技術が社会に技術システムとして実装される場面では、その時々の政治的経済的権力や産業構造、つまり社会が、いくつかある選択肢の中から特定の技術システムを選択し、選択された技術システムが逆に社会を規定し、あるいは社会からの技術システムへの要求がその上流の科学・工学への資源配分を決めていくというように、科学技術と社会の複雑な相互作用が見られるのが普通である。そして、選択された技術システムはそれが根付いていく過程で、社会のあり様を決め、ありえたはずの別の選択肢への可能性を閉ざしていく。まるで必然的な発展のように見える現代社会とそれを支える技術システムの歴史は、実はこのような、あるものが選択され、べつのものがその可能性を閉ざされていくというダイナミックな過程(このような過程を吉沢剛らは「選択のダイナミクス」と呼んでいる(2))である。

しかしこの過程の下流部、技術システムが社会に根付いた段階(技術システムが社会にロックインされた段階)では選択肢は限定されざるを得ない。過程の上流部、社会による科学技術の選択の段階、いくつもの異なった方向へ進む可能性が残されている段階こそ「人間集団が自らに関わる意思決定を人為的に行いうる」政治の領域であり、市民参加、市民による科学技術統治が戦略的に要請されるのは、まさにこの段階である。

少し細かい話になるが、次にロックインの例を見てみよう。

(1)学術会議政治学委員会政治学分野の参照基準検討分科会(2014):大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準 政治学分野、

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-h140910.pdf

(2)吉澤剛・中島貴子・本堂毅(2012):科学技術の不定性と社会的意思決定―リスク・不確実性・多義性・無知ー、科学82巻7号、788-795